フラフラフラニーの映語リ

フラフラフラニーが大好きな映画をおしゃべりします

落下する三十路女

映画 20190918 落下する夕方

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 人を好きになるのに、理屈を求めないでほしい。

 そう、言われたら返すこと言葉もなくて。

 


 でも、10年前なら、ふぁーって感じでいける、いけると思った物語が、もはや脱線して気持ちは上の空。

 なんだか、ひたすら時の流れを感じる。

 


 感情移入が上すべりしていく、物語。

 状況にも人物にも、距離がある。

 

 それは、なつかしさよりも、胃が痛くなるような感じで。

 


 映画をみて一番感じたのは、

 なんで、あんなことしちゃったんだろう。

 やっぱり、若かったからとしか言いようがないよな、とか。

 一言でいうと、反省とうそっぽい後悔。

 


 それと、ひたすら記憶をかきまわすこと。

 最後に恋愛をしたのはいつだろうとか、

 あれは恋愛と言えたのか、とか。

 

 

 

 恋愛をするには、空っぽの器が必要だ。

 空っぽじゃないと何も入らない。

 


 十代も、二十代も器が空っぽだったから、がんがんものが入った。

 ほれっぽく、すぐに恋に直行できた。

 三十代は、自分で器の形をつくって、そこにがんがん自分で選んだものを入れたせいで、恋愛の入る余地がなくなった。

 


 仕事でも、夢でも、洋服でも、旅でも、猫でも、

 恋愛の代わりになるものをいっぱい入れていた。

 

 思い返せば、

 それだけ恋愛を求めていたとも言えるし、そんなものいらないとも思っていた。

 


 恋愛なんか、まっぴらだった。

 


 もっと確実で、地に足がついて、安心できるものがほしかった。

 そんなもの、お手軽に手に入るたぐいでないことはわかっていたから、逆にはじめからあきらめていたのかもしれない。

 恋のようなふわふわして、ふぁーっとしたものより、自分を信じようと、できるだけ自分を強くしようとそう思っていた。

 


 たぶん、今も。

 

 だからこの映画を見て、あーあ、そういうことするか。

 しちゃうよねえ。二十代なら。

 という「二十代描写」があって、虚弱な胃に激痛が走った。

 


 それは、自分を捨てた男を忘れられなくて、忘れたくて、わざとセックスをして別れるというパターン。

 どうしても切れなくて、惚れた弱みで、引きずられて、相手を嫌いになる目的で

 そういうことをしてしまうシーン。

 


 やだやだ、覚えがあるよおお。

 

 

 この手の恋愛をする人間を分析したら、きっと簡単にカテゴライズができると思う。

 私自身がそうだったからよくわかる。

 でも、別にビョーキなわけじゃなくて、二十代描写なのだと冷静になって見られた。頭では。

 心臓はこう、きゅっと縮まるんだけど。

 


 それは、ちっちゃい自分に対して感じる情けなさとか、未熟さへの自己嫌悪とか、それを通過して今もそれなりに生きている自分への安心かだとか、バカだったなあ、って笑いすぎる今の私はおやじくさい、とか。

 


 二十代は、たぶん本気で相手を見ていると思いこむ時期だと思う。

 本当に見ていたのは、相手の中の自分なんだけれど、当時はそれに気がつかない。

 自分にないものではなくて、自分の中にほんとうは存在していて、まだ輝いていないものを相手のなかに見て、ひたすらそれに恋こがれる。

 


 好きな相手をとことん求めて、怖いくらいに夢中になって、別れられなくて、相手を思って泣いて。

 


 それはつらいけれど、いつまでも続くものじゃない。

 

 最後に相手を恋しいと思って失恋したのは、いつなんだろう?

 

 ここ数年は「失恋」にさえならない。

 そもそも、「恋」できない。

   恋、しない。

 


 だから、傷つかない。

 傷つかないと、楽だし、安定している。

 


 今は、それが気楽でいいと思っている。

 それなのに主人公の狂おしいまでの嫉妬や孤独をみると、胃がきゅっとなって、遠い昔に感じた好きな人との距離を思いだす。

 恋愛個別ケースにたいする恐怖ではなくて、恋愛という概念そのものにトラウマを感じちゃっている。

 


 もう、恋はいらなくて、ひとっとびに、老夫婦のような空気のような愛と安定がほしいと願っている。それが恋の先にしかないとわかっているのに。

 


 これから恋できるのだろうか。

 なんか、しなくたって十分生きていけると、思っている。

 だけど、なんか寂しいなあと思っている。

 どこかで、恋愛ってきらきらしたファッションのようなものだと思っている。

 そんなに気軽に考えているなら、すぐ買いにいけばいいのに、

 それが、やっぱりできないでいる。

 


 なんなんだ、私。

 たぶん、恋に恋している三十路なのだろう。

 わあああ、ぞっとする!!

涙の扱い方

190918 涙のあつかい方

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 よく泣く。

 映画を見ても、小説を読んでも、もちろんマンガを読んでも。

 ヒトの話を聞いても泣く。

 


 ただし、泣いてるからって心底感動してるわけじゃないときもある。

 むしろ、ただ涙腺が弱いだけで、誤解なんですと叫び出したいときもある。

 

 

 

 いやいや、違うから。

 これは、違うの!

 感動とかじゃないから。今、この主人公に同情はしてるけど、

 この展開とか、全体的な状況とか許容してるわけじゃないから。

 


 とか、大声で弁解したい気持ち。

 ただし、涙は止めどなく流れ、内心めちゃくちゃ

 

 


 悔しい

 


 

 


 だから、私は「余命いくばくもない花嫁」的な話は大嫌いだ。

 だって、絶対泣くから。

 

 


 

 たぶん、私は泣かされると腹がたつのだ。

 

 そんな泣き方ばかりじゃないはずだけど、基本的には泣くと同時進行で私の中にあるのは怒りの感情で、それは、主人公をこんな泣かせる状況に置いた物語にたいしてであり、そんな情けない状況で泣いている主人公に対しての怒りであり、それを見て泣いている私自身にたいしてである。

 

 

 なんか、こう、泣くって疲れるでしょ

 


 人生、笑っていたい。

 

 

 

 昨日、ある映画をみた。

 十五年くらい前の邦画だ。

 原作は女性作家の作品で、当時ベストセラーになった。

 当時大学生だった、私は一ミリもその作家の作品をいいな、と思った記憶はない。

 けれど、今映画をみたら、あんがい感動したりして、という甘い見通しでその映画を観た。

 


 いや、もう。

 罵詈雑言の嵐。

 

 

 

 バカじゃねえ?

 ふざけんな。

 理由がわかりません。

 

 ああ、年取ったんだね。きっと私が。

 つーか、時代?うん、そうだろうよ、きっと時代だ。

 バブルの名残っつーの?

 

 

 

 

 うっうっ、(実はここで泣いている)

 


 そういうのだめでしょ(主要なキャラクターが唐突に死んだシーン)

 そういうことしちゃ、だめでしょ。

 逃げだよ。逃げ。展開的に安易に逃げすぎ。

 あーっもう、信頼感ゼロになったね。

 


 ふぁー(あくび)

 

 むーむー(1、4倍速の音)

 

 いや、ほんと別れてよかったと思うよ(ラストシーン)

 


 チャリチャリラー(スタッフロール)

 


 え、終わりかい?

 

(ため息)

 


 

 

 年を重ねるとものごとにたいする許容は大きくなる。

 そうなっていくのが普通だ。

 しかし一方で、ますます揺るぎないものになっていく価値観も同時に存在する。

 私の場合は、かつて首を傾げた作品は、今はもう首が回りきらないほど許容しかねるものになった。

 私がより私らしくなって、作品との距離ができてしまったのだろう。

 

 

 

 ここがねー、なんか惜しいよねえ

 とかそういうレベルでなしに、ひたすら腹立たしい作品。

 根本から、ないでしょう、でしかない作品。

 


 だったら観なきゃいいのに、と思うが、その通りだ。

 実際、三回ほど動画を止めた。

 止めたけれど、深呼吸をして、1、4倍速にしてがんばった。

 

 

 

 途中で、踏んだり蹴ったりの主人公が号泣するシーンがあり、私はそこで「不覚」にももらい泣きをしてしまった。

 でも、感動したわけではなかった。

 

 だから、涙のわけを考えた。

 


 泣いたからって感動したんじゃないんだと。

 

 

 

 でも、じゃあ、なんで泣いているんだろう。

 


 私は腹立たしい展開の映画の前でティッシュで鼻を何度もかみながら考えた。

 


 なぜ、私は感動してないのに、泣いているのか。

 悲しいからだ。

 でも、悲しいだけじゃない。

 

 映画を観た翌日、朝コーヒーを飲んでいる時に、涙の理由がわかった気がした。コーヒーを飲むとすぐトイレに行きたくなる。そこで閃いた。

 

 ああ、あれはただの生理現象だ。

 泣くイコール感動と、思っていたけれど

 映画を見終わったあとのなんともいやなあの気持ちをもって、感動したとは、たぶん言えない。

 いや、絶対言っちゃいけない。

 


 けれど、局地的に泣いてしまったのは事実なのだ。

 

 


 もしかして私の涙腺が虚弱すぎ?

 (涙腺って筋トレできる?)

 


 私にとって、いらっとくるこの映画を通してなんとなく自覚できたのは、涙はたぶん、激しい感情を味わったときに出るもので、激しい感情にさらされているからこそ、その理由を分析しにくい。

 でも涙を出し切ったら冷静になれ。

その激しい感情は、感動なのか?

 

 

 つまり、謎はすべて解けた。

 

 

 

 

 涙は生理現象、つまりおしっこと同じだ。

 私の場合は、主人公がつらかったら、泣いちゃうのだ。それはコーヒー飲んでおしっこでちゃうと同じくらいの。

 (しかも成分同じだよね?)

 

 


 なんだよー、おしっこかあ。

 そりゃ、定期的におしっこ行きたくなるもんねえ。

 


 わかって、すっきりである。

 私にとっての涙は水を飲んだらおしっこに行くと同じで映画を観たら泣いちゃうものだ。

 


 だから私が「泣いた!全編号泣」といった所で、信用してはいけない!

 


 重要なことは、感動しているかしていないかは、涙にはたぶん関係ないということだ。

 


 うるっときてもがーっと泣いても感動してるわけではなくて、それはおしっこ行きたくなっていることであって、だね。。

 でも、おしっこって映画中に発言するのはいかがなものだし、やっぱりここは「感動したっ!」って顔をして泣いてるってことにしておくかとか。

 


 みなさんも、もしかし私と同じですか?(んなわけない) 

 


そういうわけで、私は自分の涙を信用するのはよそうと思う。

だってあまりにも信用ならんですもん。

 

190912 愛を読む人(原作:朗読者)

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 ★激しいネタバレのため、映画、原作ともにクリアした方におすすめします。

 

 

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 彼が十六歳、彼女が三十六歳のとき。

 彼女は彼にすべての感情を与えてくれた。

 光と闇の両方を。

 それは善悪をこえた、大きな衝撃だった。

 


 少年時代に出会ってしまった、永遠の女性ハンナ。

 美しく、たくましく、やさしく、ときに冷たいハンナ。

 人生を変えてくれたハンナ。

 


 数年後二人は裁判所で再会することになる。

 彼は法律を学ぶ学生。

 ハンナはナチスに荷担し、収容所で看守をしていたことで裁判にかけられていた。

 


 彼女の裁判の結果は無期懲役

 だが、罪を認めたハンナは嘘をついていた。

 してもいない罪を、おかしたと言ったのだ。

 

 彼女の嘘、それは、彼女が一生をかけて守ろうとした秘密だった。

 


 その秘密を守るために、つかれた嘘。

 それは、悲しすぎるものだった。

 

 

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★フラニーのおしゃべりタイム

 今回、まれにみるまじめさですっ!笑

 


 この物語は、実は私自身とても衝撃を受けました。

 でも、なぜ衝撃的だったのか、その理由がわからない。

 だいたい、これこれこういうわけで、感動したっ!

 って、言えるんですが、この物語はそうならなかった。

 


 それで、ゆっくり考えることにしました。

 


 たぶん、私にとってのこの物語の謎は、彼とハンナの間で行われていた朗読についての意味あいなんだと思います。

 それから、なぜ彼が監獄にいる彼女にむかって朗読テープを送り続けたのかという動機です。

 

 原作の小説は、文章の中にその理由がはっきりとかかれていないのです。

 朗読ははじまるのですが、その理由については明言されていない。

 


 なんかもやっとした感じでかかれており、まさに行間を読め、と作者から言われているような「読解力」を要する文章なのです。

 なので、いかに自分がこれまで直接的な文章を読んできたのか、また世の中に象徴を使った小説が少なくなってきたかってことかと思いしらされたというか。

 


 そういうわけで、この小説は大事に何度も読みました。

 

 それこそ、自分でこの作品を朗読して音声に吹き込んで、散歩しながら。

 


 物語の核心は、彼女の秘密にあると思います。

 彼女の生い立ちが抱えるある秘密。

 でも、その秘密があるからか、それともなくてもそうなのか、とにかく彼女はたくましく美しく、プライドを持って生きている女性です。

 


 その女性が秘密を守るために、職を転々とし、殺人の罪さえ、犯していないのに認めてしまったことで、彼は自分が少年時代、彼女にずっと朗読を頼まれていた理由に気がつきます。

 

 

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 彼にとって、きっとハンナという女性は、人生を変えてくれた人間だったのだと思います。

 病気で、落第寸前だった彼を学校に行かせようとした彼女自身が、どれほど学校に行きたかったのか。

 おそらく、彼女にそれができたら彼女の人生は全くちがったものになったはずです。

 でも、裕福な家庭に生まれた彼には学校に行けない人生のその後など想像できようはずがなかった。

 


 この物語のとても不思議な点はハンナという女性が、一生をかけて文盲であることを秘密にしようとし、文字を勉強しようとした形跡がないことです。

 彼女のプライドがそうさせたのか、それとも子供時代に獲得できなかったものは、あの戦争時代、二度と得ることができなかったのか、それはわかりません。

 でも、とにかく彼女はいまさら、学べないと思っていたのかもしれません。

 それなのに、ずっと彼に、そしてナチスの看守になってからは収容所の子どもたちに本を読ませ朗読を聞いていました。

 


 きっと、彼女のような秘密を抱えた孤独な人間にとって、本はなぐさめの筆頭だったでしょう。

 それなのに、彼女自身は本を読むことができなかった。

 

 裁判で、彼女は文盲ゆえに裁判資料も読めず、文脈の把握も、能力のある弁護士も雇えず、最後は自身の文盲を隠すために、殺人の罪さえ認め、無期懲役になってしまいます。

 

 彼自身は裁判の間、彼女に対する様々な思いを抱いていました。

 かつて愛した女性。

 そして、その後彼の人生で彼女以上の女性はいなかったわけですから、彼女は彼の特別なひとでした。

 その彼女がなぜナチスに荷担して、平気でいられたのか。

 彼女を理解し、裁きたいと彼は思いました。

 


 でも、この裁判が終わってハンナの表情をみたとき、彼は自分が仕事にしていく法律が彼女を裁けないし、彼女を救うこともできないと思ったのではないかと思います。

 

 彼は自分で認識していなかったかもしれませんが、おそらく自分の人生で唯一光を放った少年時代を与えてくれた彼女にお返しをしたかったのではないでしょうか。

 

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 誰も彼女に手をさしのべなかった。

 彼女は文盲をいうハンデと秘密を抱えながらも、必死に生きてきた。誰がそれを裁けるというのか。

 裁判で裁けたのは彼女がナチスで犯した罪だ。

 でも、彼女をずっと文盲のままにしていたのは、誰のせいなのか。

 貧しさ故に学校に行けなかった彼女に対して、だれが罪を背負うのか。

 彼女自身のせいなのか。

 


 彼女を救いたい。

 


 今度は自分の番だと、彼は思ったのではないでしょうか。

 


 

 この物語は、私にとってはハンナのほうが女性で、三十代で近いのですが、文盲でナチス時代に生きたという点で遠い存在です。

 一方主人公は男性で、十六歳のときに三十六歳の女性と関係をもち、それがよくもわるくも一生を左右した、となると、この二人は私にとっては異邦人なのです。

 


 なんか、どっちもヒトとしてよくわかんないという笑。

 


 でも、ハンナの置かれている状況、それをみつめる法学部の青年というのは想像ができます。

 


 文字が読めないということは、思考力や判断力がおそらくかなり低いままだと思います。

 単純な思考はできても、分析や複雑な認識や発想を達成するのはかなり難しい。

 これは、私の祖父母をみていて思いましたが、父方の祖父母はどちらも戦争時代に小学生、中学生だったので、二人とも中学校卒業でした。

 私たちの世代は両親のおかげで大学まで出してもらうことができましたが、祖父母たちは、複雑な思考というものがあまりできませんでした。そのせいで、苦労することや失敗することはたくさんありました。

 


 文字を読み、本を読み、思考するというのは生活の基礎なのです。

 


 それを封じられた人間はいかに心細いでしょうか。

 外国に行ったときに感じる不安以上かもしれません。

 


 そのハンナの苦労、そしてその苦労と羞恥心を持っていても、あれだけ美しくたくましいハンナを、彼ははじめは欲望から、そして最後は本当に心の底から愛していたのではないかと思います。

 

 

 

 主人公は長じて、法律の世界に身をおき、そしてナチス時代の歴史認識も鋭く身につけていきます。

 だから、かつて愛した女性がナチスに荷担していたと知って、彼女の罪を裁き、理解しなくてはならないと思ったのだと思います。

 


 でも、彼女という人間をよく知ったことで、法律が一人の人間に対してできることは、上辺だけだと思ったのではないでしょうか。

 


 過去は変えられません。

 でも、これからも過去と同じように彼女が生きてはいけない。

 

 家庭も、仕事も、熱が入らない彼が、唯一夢中になった少年時代の女性、ハンナ。

 


 そのハンナが望んだことはは、本を朗読してもらうことでした。

 

 そうして、彼は彼女にただただ本を朗読したテープを二十年間送り続けることになります。

 


 欲望も見返りも、法律も、家庭も、仕事も、歴史も裁きもすべてが消えて、彼の彼女への朗読する姿だけが残ります。

 


 朗読者の彼の姿だけが残ります。

 


 それは、愛そのものなのだろう思います。

 


 最後に残ったのは、愛

 


 なんだと思います。

 


 原作は、ちょっと難しいです。

 でも、映画はすっと心にはいってきます。ぜひ、観てみてください。

190911 帰ってきたヒトラー

 

 

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 カリスマとアイドルの共通点。

 それは、膨大なファンの数だ。

 両者はファンの熱狂による、熱狂のための存在として、高みへと上りつめる。

 要するに彼らはファンあっての偶像。

 カリスマとアイドルは多数決をもっとうとする民主主義の産物そのものだ。

 


 この映画はヒトラーが現代のアイドルとなっていく過程を描いている。

 


 すべての人間が心底感じている不満を言語化し、卓越したストーリーテーリングと信念に裏打ちされた声で、彼は聴衆を魅了する。

 彼の声は聞く人によっては、オペラに、ラップに、ポップスへと昇華する。

 それもメガヒット級の。

 


 だまされたと思って、彼の「歌声」を聞いてほしい。

 どれほど、彼が私たち現代人を、とりこにしてしまうのか。

 どれほどヒトラーが忌むべき人間か知っていたとしても、雷に撃たれたように彼の声に感動してしまうのか。

 そして、胸が熱くなったあと、そんな自分にどれほどぞっとするのか。

 

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 もちろん、思い切りぞっとしたほうがいい。

 


 現代にヒトラーがタイムスリップしたら。

 この「もしも」で始まるこの映画は、かつて第三帝国で行われた彼のグロテスクなサクセスストーリーそのものだ。

 


 ヒトラー本人をヒトラーそっくりの芸人と勘違いしたテレビ局が、ドイツ全土に地上波放送したものだから、あっというまに私のように彼のファンが増殖。

 SNSで、アイドルヒトラーの露出頻度を拡大再生産し、(今、わたしが書いてるこのブログもね)彼はあっというまにカリスマへと昇華していく。

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 その速さといったら。

 万歳、SNS。

 彼の歌声を聞いた人間なら、そのほとんどが「いいね!」やリツイートをしたくなるし、実際、それはワンクリックですんでしまう。

 


 そして、そして、その先に待ち受けているものは、なんだろう。

 

 

 

 もしも、生活が苦しく、誰かのせいにしたいとメディアの先導があるとき、私たちのの不満の根元、悲しみ、明確に言語化し、怒りの声をあげてくれる人間がいたとしたら?

 


 あなたはフォロワーにならずにいられるだろうか。

 


 不満と悲しみを怒りに転化させる彼の歌声は、当時も今もメガヒットソングだ。

 誰がこれにあらがえるのだろう。

 彼の恐るべき「名曲」を聞いて、あなたは、抵抗できるのか、ぜひ各自で判断してほしい。

 

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★フラニーのおまけなおしゃべり

ほんとにぞっとしたんですよ。

この映画をみたとき。

 


現代にタイムスリップしたヒトラーが、討論番組で、観客に語りかける口調に。

すっごい、熱くて心がぐらっと揺れました。

救世主、カリスマ、偉大なリーダー。

よくぞ言ってくれた感。

 


よくぞ、わかってくれた感。

 


よき理解者、とよき指導者。

 

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ヒトラーって、こんなに魅力的だったの?

私が思い描いていたリーダーってこのヒトだ。

って、あれ?ヒトラーだよね。

 


なに、なんなのこの熱い胸の鼓動は?

やば、ヒトラー、超好き(どうかこの文章が検閲されていませんように)

(グーグル先生、誤解です。映画のよしあしについて語っているだけです)

いや、本当に恐ろしい映画ですよ。

そして、声ってすごいなと。

 


彼の声って、説得力のある歌なんですよ。

聞いていると酩酊しそうになるぐらい。

そして、闘志が生まれてくるような。

 


ヒトラーって選挙で圧勝した民主主義の申し子なんですよね。

独裁者になるまでは、きちんと国民の支持を得てるわけですよ。

だから、国民はだまされたっていいわけは半分しか通用しない。

私たちは過去にむかって知識で、そう考えます。

 


でも、この映画をみたら、そんな「考え」なんて、むちゃくちゃ浅くて何の役にもたたないってことがわかります。

とことん考えぬかないと、きっとまたヒトラーは現れるんです。

だから、映画を観てヒトラーの「魅力」を感じてほしいです。

 


社会に不安と不満が蔓延し、またそれをメディアがかきたてるとき、ヒトラーが現れる第一フェーズはクリアしてます。

あとは、その不満を的確に怒りと敵意に転化するヒットソングをつくれるシンガーソングライターが現れるのを待つだけです。

これが第二フェーズ

 


私たちはずっと待っていたのだから、彼に「いいね!」をしないなんてありえないのです。

これが第三フェーズ。

 


そして最終段階。

ファイナルフェーズ。

1933年1月30日以降のドイツの歴史を参照しましょう。

190912 ALL YOU NEED IS KILL

 

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繰り返す死、死、死、死。

他人の死、自分の死、繰り返される死。

死、死、死、死。

次も死んで、また死んで、もう一回死んで、

今度も死ぬ。

だからついでに死んで、追加して死んで逆戻り。

同時に繰り返される生。

生、生、生、生、生。

生、生、生、生。しつこいくらいの生。

これって、もう人間じゃなくて、不死のヒーローって言ってよくないですか?

 

 

 

もし、時間を戻せたら、あのときやり直せたら。

でも、それって美しい物語なの?

本当はもっとずっと地獄と絶望に近くない??

 


同じタイミング、同じ会話、同じ敵、同じ味方、同じ障害物に、同じ回復アイテム。

やり直しがきく人生。

それって実は時の監獄。

 

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抜け出すクリア条件は?

彼女に告白してOKをもらう?

ダンジョンの中ボスを倒す?

嫌みな上司に企画を通す?

それとも、売り上げベストセラーの小説を書く?

 


ミッションをクリアできなければ、容赦なくリセットされる今このとき。

リセット=死。

奇跡の生還。

別名地獄のリテイク。

 

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生還してすぐに、

さきほどの見事といっていい爆死のシーンが脳内。

それをトラウマと呼ぶか、経験値と呼ぶかはあなた次第。

 


あなたは、もし人生をやりなおせるとしたらやりなおすだろうか?

 


ただし、時間をもどしたいという欲望は、代償とセットです。

美しい等価交換。

それをお忘れなく。

 

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繰り返される失敗と挫折とみじめな、絶望。

信念がある人間にとっては、経験になるって?

でもそれだけ?

あなたはいつだって何かを手にいれるかわりに、何かを支払っている。

いったい何を支払った?

時間ではない。

だって、時間は巻き戻されるのだから。

じゃ、いったい何を支払った?

 

 

 

過去の過ぎ去った同じ地点に、何度もループしてしまう物語は、かならず強いゴールが設定されている。

主人公はそのゴールにたどりつくまで、エンドレスで同じ時の中をすごす。

 

 

 

ラストは二つしかない。

永遠の時のなかに閉じこめられるか。

永遠の時のなかで膨大な戦死を繰り返した最強の戦士として、ループをぬけだすか。

だから、ループの物語の主人公はいつでも最強の戦士となっていく。

そうなることでしか、もはや時間の迷路を突破することはできないから。

この物語にしても、あの有名な魔法少女の物語にしても。

 


これは、ヒーローの物語であり、凡人の物語ではない。

契約と魔法には代償がある。

 


★フラニーのよけいなおしゃべり

 


いやー、ここにくると気楽ですね(笑)

よけいなおしゃべりなんで、ここではおなじループもののまどか★マギカについてしゃべります(まじか)

 

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最近、またまどまぎを再読しました。

アニメは長いので、シナリオのほうを。

いやー、よくできてるなあ、よくできていて、ぞっとするなあ、という。

私は構成が見事な作品が実は大好きです。

たぶん、みんなも好きだとおもうけどね(笑)

でも、なんか構成が神な映画って、ちょっと疲れるんですよね。

頭のなかでめっちゃ整理したりしませんか(しねえよ)

 


まどまぎは、純粋に感動する作品ではなくて、ひたすら「うまいことやったなあ」という感心・嫉妬のワルプルギスの夜で、私にとっては魔女化しそうになる作品です。

 


実際、まどまぎを観ていて、一番衝撃的なのは、ほむらが直面するラスボスとのリテイクの嵐です。

何度やっても、クリアできない。

このクリアできない感って、すごいことです。すごい絶望ですよ。

あきらめたほうが、ずっと楽かよ、って思うわけです。

あー、もう!っていう。絶望感。

 


そして、あきらめることをあきらめたという、ニヒリズムをつきぬけた決意。

いやなんかね、あきらめることをあきらめると、変にすがすがしいわけですよ。

ああ、もう私だめなんだ。

だめなんだったら、またやればいいや。みたいな。

ここで、やーめよってならないのが、なんか因果ですよねえ。

結局あきらめられないっていうね。

 


だから心に小さな炎がともって、リテイクに耐えられる。

それってあたたかいハートフルな炎じゃないです。

ぞっとするほど冷たい執念の炎です。

つまりですね、これです。代償とは。

暗い炎ってやつですよ。

ソウルジェムが濁る的な。

 


私は、もうああ、にごってなんぼじゃね?

にごってやりますとも、とも!!って感じですが笑

そういうわけで、

オールユーもまどまぎも、前に前に進むしかないじゃん。

だめだって、やるしかないんだから、という執念の物語なんですね。

まどまぎのほうはちゃんと魔法の物語なので、さいごにすっごい魔法がでてくるわけですが(それがあるから、ほんとすごいよねえ)

 


いっぽう、こちらのオールユーは凡人がヒーローになっていく、ものすごい地道な過程そのものです。

主人公はレベル1からラスボス、オーバーキルにまで成長していきます

ヒーロー、ヒロインの作り方なんていうつまらないタイトルで本当によかった、二本のすばらしい作品、ヘビロテしすぎてなんでも聞いてください笑。

190911 海街diary

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半径三キロメートルの世界。

両側に木々の生い茂る坂道、狭い路地、江ノ電の発車音、

灰色の砂浜、頭上をとびかう鳶と、かもめ。

船着き場に揺れる波。

 


そんな街で暮らす三人姉妹のもとに腹違いの妹がやってくる。

 


しっかりものだが不倫をしている長女。

酒癖と男癖が悪いが根はまじめな次女。

マイペースで、穏やかな三女。

姉たちの父を奪った母との子どもであることを申し訳なく思う四女。

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大人になった彼女たちは、身を寄せ合うように両親の去った古い日本家屋に住んでいる。

庭に、樹齢五十年の梅の木がある。

姉妹たちは毎年梅酒をつくるのを楽しみにしている。

それは、祖母の代から受け継がれている香田家の小さな伝統だ。

 

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木々に囲まれた日本家屋、海沿いの道、江ノ電、坂道。

風、海、光、太陽。

 


小さな海沿いの街は、どこかのどかで、どこか都会的で、どこか田舎の香りがある。

江ノ電沿いの風景は、数え切れないほどドラマや映画やマンガの舞台になってきた。

そのせいか映画の風景以上のものが後ろにも前にも見えるような気がする。

そんな物語好きにとってぜいたくな街は、いつ見てもなつかしく、同時に新しい。

 

 

 

少し田舎で少し都会の海街がそっと彼女たちを包み込む。

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★フラニーのオマケおしゃべり

 


海なし県、田園地帯で商店街さえ数キロ先で育った私は、鎌倉や湘南の町がすきです。

すきっていうか、住んでいいと思ってます。住みたいと思った町は、湘南と岡山市(なぜ?別の会ではなすかもしれません)です。

 


なぜ住みたいか。

 


それは、自然がのこるトカイナカ(都会と田舎のハイブリッド)の海辺の街だからです。

海があると、世界へとつながっていく感じがあります。

 


それがうらやましい。

 


私は田園地帯のひろがる関東平野の片隅で生まれましたが、私の生まれた年、目の前に東北新幹線が開通しました。

この新幹線を見て、私は育ちました。生まれて、半年で新幹線の走る、ゴーゴーという音をまねていたというから、どんだけ好きなんでしょう。

いえ、好きっていうか、ありがたい存在です。

 


中学校の屋上からよく新幹線を眺めました。

あの新幹線をたどると東京があるんだなと思いました。

いまでは、あの新幹線の先に東京があり、アメリカがあり、インドがあり、イタリアがあるんだな、になりました。

 


私にとって、未来と遠くを意識できる新幹線。そして、それが自然としてある海の街って、なんてすてきなんだろうと思うのです。

いつか、海辺に住みたいです。